テンペストの時代背景とご先祖様

テンペスト、ドラマ化の次には3D映画化までされちゃうという。
うちのご先祖様とテンペストの登場人物が、少しだけ近いところにいたので、創作部分と歴史考証と合わせてまとめてみたい。

以下、ネタバレも含まれる。

王宮の評定所役人になるための試験、科試で、先進的にぶっ飛び過ぎた回答のために落とされる孫寧恩。その寧恩を特別に採用した尚育王は、賢王とも評価される人。
在位は、一応、1835年から1847年。
父王は尚コウ王である。この尚コウ王、一説では精神病を患っていたとされる。この精神病が、うちのご先祖様と関係するきっかけである。
尚コウ王が精神病が悪化したので、1828年、尚育がわずか15歳の少年ながら、執政となる。在位で「一応」と説明したのは、実質的に15歳で王政についたから。

在位晩年の1846年、ベッテルハイムが来琉し、長期滞在する。
このベッテルハイムに子ども(12歳くらいに見える)であった真鶴(孫寧恩)は学問を習っている。
真鶴は孫寧恩となって試験を受け、王宮に登るときに尚育王に取り立てられている。ベッテルハイムに学びはじめてから、王宮に上がって尚育王の指示でアヘン取引に関する事件解決で活躍するあたりの期間は、たった1年ほどということになる。

尚育王が亡くなった後、尚泰王が1848年に即位する。ドラマ(映画?)では10代の少年っぽいが、実は4歳。小説では幼い感じで登場している。
尚育存命中、3歳の幼い王子が孫寧恩に惚れていたのかは不明である。

ペリーが琉球に来航したのが1853年である。八重山に島流しされていた孫寧恩が真鶴となって王宮に登り、尚泰王の妻となるのはペリー来航前なので、真鶴は9歳くらいの尚泰王の妻となったことになる。

琉球王の場合、一人の王妃のほか、夫人と妻を持つことが多かった。
本来は落選していた真鶴を妻として召し上げた9歳の尚泰王は、おませさんである。

1879年の琉球処分の頃、王宮から逃亡した真鶴は10歳くらいの王子、明を育てている。
ということは、1869年頃に産んだということなので、尚泰王が25歳くらいの子ということになる。
妻にするのはおませだが、さすがに9歳では子作りできずに25歳までかかったと思われる。

真鶴の生まれは、おそらく1836年頃と思われ、1869年には33歳くらいである。

さて、うちのご先祖様はどうしたというと、尚育王の父王、尚コウ王と関係がある。

うちの家に伝わる話がある。
尚コウ王は精神不安定で、すぐに臣下たちを処刑したりしたようである。
臣下たちは尚コウ王を恐れ、精神安定のために琉球中から美女を集め、美人コンテストをひらいて優秀者を妻にさせたらしい。
妻は「あごむしられ」と呼ばれるけっこう高い身分である。

その妻の一人に、うちのご先祖様の娘がいた。
娘が王の妻となったため、ご先祖様は士族(位的には中の下くらい)となったか、あるいは下級士族だったのが昇進したと思われる。

その娘は、王子と姫を一人ずつ生んだが、王子は幼くして死去。
姫は、テンペストでは悪役グループとして登場する馬氏一族のところへ嫁入りした。
時期的には、兄王である尚育王のもと、嫁に出された可能性が高い。
もしかしたら、孫寧恩と顔を合わせることはあったかもしれない。

ちなみに、馬氏は、歴史上は琉球で最も優秀な人材を多く輩出した一族で、三司官(総理大臣みたいなもの)を何人も出している。

ご先祖様の娘は、そのまま安泰かと思いきや、精神不安定な王様の妻である。理由は伝わっていないが、実家に帰された。
離縁されたのか、あるいは王が死去したからなのかは記録にも言い伝えも残っていない。
実家に帰されたご先祖様の娘は、実家で余生を過ごして死去し、うちの門中墓(先祖代々の一族が入る墓)にいるらしい。
幸せであったか不幸であったかは定かではない。

その後のうちの一族では、歴史記録書の「球陽」に、妻が畑にイモを掘りに行ったとき、雷に打たれて亡くなったという記録があり、その後は士族ながらも普通に農業をしていたことがわかる。

なお、テンペストにおいて、王様、ベッテルハイム、ペリー以外の殆どの登場人物は想像上の人物である。

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