[HISTORY] 日琉同祖論と為朝伝説

琉球に古くから伝わる為朝伝説がある。
沖縄の人で信じてる人は、たぶん少ない…よね?

その為朝伝説が史実であり、琉球国王尚氏はその子孫というように語っている人がいたので、そもそも為朝ってどういう人だったのよ? その伝説の詳細は?と調べてまとめてみた。

源為朝は、簡単に言えば三国志の呂布みたいなリーサルウェポン武将。
1150年ごろに勝手に九州を平定しちゃって朝廷を怒らせたり、保元の乱で郎党が破れて捉えられ、伊豆大島に島流しになったらその伊豆大島でも大暴れしてたちまちに周辺の島々を支配下におさめるが、やはり朝廷に怒られて攻められ、自害。

かなり端折った。

為朝伝説

ここで、自害してはいなくて、伊豆諸島を支配下におさめた後、伊豆大島を脱出して琉球に渡ってきたという伝説になる。
運を天に任せたら沖縄本島の北部、今帰仁に為朝が流れ着いたので、その地が運天と名付けられたという。そしてなぜか南部に下って南部の大里按司(豪族)の妹との間に子をもうけ、その子が舜天王となり、琉球王統の2番目の始祖になった、という話。

為朝は妻子を残して日本に帰った。
為朝の妻子は残された浦添の海辺で為朝の帰りを待ちわびたことからその地がマキミナト、牧港となった。

ところが、不思議なことに、琉球で子供をもうけるくらい長期滞在しているのに、為朝ともあろう大豪傑が琉球では特に武功をあげるでもなく消えさっている。

なお、運天、牧港の地名の由来は、為朝伝説とは関係がなく、後にあてられただけらしい。

中山世鑑への記載

この話、琉球の歴史書「中山世鑑」に記載されていることから史実であると考える人もいる。中山世鑑はの羽地朝秀が1650年ごろに編さんしたもの。

ただ、これは薩摩に侵略されて植民地化された琉球において、朝秀が日琉同祖論を主張するために書き込んだものと思われ、他にも史実とは言い難い伝承や神話が書かれている。少なくとも序盤は歴史書として通用するしろものではなく、これを史実と考える学者は皆無だろう。

王統の分家の出である朝秀は薩摩に留学し、かなり薩摩・日本に入れ込んだ。
これまでの琉球の風習を廃止、制限し、特に政教分離を推し進めた。まさに神域だった聞得大君にまでその影響は及んだ。
疲弊した琉球の経済改革を断行して琉球王府を立て直したことから、琉球の五偉人に名を連ねている。

薩摩の島津氏は、初代の島津忠久が源頼朝から薩摩などの守護職を命じられたのが始まりというが、忠久は実は頼朝の落胤なのだと島津家では伝わる。
まぁ、日本の武家では源氏の系統であると自分の先祖をでっちあげることがあったが、島津氏の頼朝の落胤説は全くのでっち上げではないのかもしれないくらい近いところにはいた。

若くして薩摩に留学し、薩摩にいれこんだ羽地朝秀は、「薩摩の島津家と琉球の尚家は先祖が同じ親戚同士」ということにしたかったのか、あるいは薩摩藩の意向が働いたのではないかという説が強い。

清国に渡ろうとして琉球に滞在していた僧侶、袋中上人が琉球の高官に依頼されて書いたといわれる「琉球神道記」や「保元物語」を朝秀は薩摩留学中に読んだと思われ、それを取り込んだと考えられてる。

しかし、いかんせん、本土から渡ってきた僧侶が適当に伝承や作り話をまぜて作った神話や伝説を流用したことから中山世鑑は史書として怪しい品質になってしまった。
日琉同祖論は、今でも保守的思想の強い人たちが主張することがある。

神話・伝説、そして史実へ

為朝伝説を含む、琉球王国の王統の経緯を、神話から第二尚氏までの繋がりを簡単にまとめる。

天帝から琉球に下された天孫氏の王統は完全に神話。

天孫氏を裏切って滅ぼした臣下を誅して王位についたのが舜天王。この舜天王が為朝の子という伝説。
これは作り話である可能性が高い。舜天王の実在を証明する資料がないが、王ではないものの、その後の王政につながる強力な豪族が浦添に発生したのは間違いなさそう。

舜天王統から王位を譲り受けたとされるのが英祖王統。英祖王は実在したっぽい。

英祖王統を滅ぼしたのが察度(さっと)王統。察度の子、武寧が初めて明皇帝から冊封され、名実ともに王となる。実在したことは確実。

その武寧も間もなく、尚巴志に攻められ、王位を追い出される。
尚巴志がその父を王とし、第一尚氏が始まる。

尚巴志の子、尚泰久の家臣に金丸という人物があり、王府内で成り上がり、当時の有力者であった勝連按司の阿摩和利と忠臣の護佐丸をぶつけさせて両方を滅ぼさせる。
そして王家が荒れたので、臣下たちが金丸を王として推し、尚円王となる。第二尚氏の始まり。この辺の事情はちょっと怪しい。策略的なものを感じる。

イデオロギーと神話

さて、ここまで書かずとも、日琉同祖論でいう、最後の琉球王と源氏とは関係なく、でっち上げに近いものであることは明らか。

なぜ保守思想の強い人が日琉同祖論を主張したがるのかわからないが、近年になって次第に増えていく沖縄独立論への対抗として持ち出されることがあり、琉球はもともと日本の一部であって独立するのは不義であるという論調なのかもしれない。

中山世鑑を編纂下した羽地朝秀は、今でいうと植民地エリートだった。
薩摩を迎合し、かつ薩摩の力を持って琉球を立て直そうという考えは、400年近くたった現代でも似たような構図の中で、薩摩から日本・米軍と相手を変えたうえで存在してる。