[OPNION] 治安維持法が生んだ悲劇

戦前の治安維持法は、政府に対して国民が抗うことを弾圧し、逆らえなくしていくのに使われたが、その結果が勝ち目のない日米開戦へと向かわせ、領土も失い、数百万人の国民の命が失われた。日本国民以外の犠牲者も入れると途方もない被害である。

そんな治安維持法と構成要件がそっくりな共謀罪こと「テロ等準備罪」が2017年6月15日の朝、与党の禁じ手ともいえる手段をもって国会審議をすっとばして成立された。

議会制民主主義の終焉

日本の議会制民主主義の歴史上の汚点というか、議会制民主主義の崩壊というものか。
この成立の仕方は、共謀罪という微妙な法律を可決するにはかなり乱暴といえ、これはこの法律が事前に政府与党が言っていたこととはかけ離れた運用がされることを窺わせる。

治安維持法により、お国に逆らう声が弾圧され、公では国民は全て同じ方向を向いているしかない時代。日中戦争から拡大した大東亜戦争・日米開戦。強大なアメリカの軍事力にじわじわと撤退に撤退を続ける日本軍。その戦闘の終盤ともいえる沖縄戦での話。

沖縄鉄血勤皇隊

日本本土で学徒動員というと、20才以上の成人した学生を徴兵したもののことと思うが、沖縄の学徒動員というと13才から17才までの、今でいえば中学生と高校生を徴用したものになる。
当時の憲法でも子供たちの軍徴用は認められないが、そんなことは政府にはもはや関係なかった。
実際に本気で志願した生徒もいたが、ほかの多くの生徒も志願したということにした。

志願したくはなく、学校や友人ら周りの雰囲気に飲まれて志願した生徒も多かった。
中には志願を拒否した生徒、親に強く止められた生徒もいた。その選択は正しいものだったが、それは敗戦間際だったから。そうでなければ拒否するのも難しかっただろう。
当時、日本人から差別される境遇から抜け出すために、沖縄人たちは日本人になろうと頑張るあまり、沖縄は日本でも有数の皇民化運動に積極的な地域だった。

かくして、13才から17才の軍服に憧れる少年たちは軍隊に入った。そのうちの一つが「鉄血勤皇隊」である。
期待していたのは日本兵と同じく銃剣を与えられて戦場で米兵と戦えること。
ところが現実は違った。

ひたすら穴掘りする毎日。
米軍は文化財の保護のために爆撃を避けるということから首里城の地下に軍司令部の防空壕を掘らされたのだ。

穴掘りが一通り完了し、米軍も近海に迫ってくると、軍は13才の隊員たちを除隊させ、親元に返した。
これはまだ幼いからではなく、食料がもったいないのと、戦闘になると足手まといになるからだった。

一方で軍と行動を共にすることになった少年たちは、日本兵からの差別を受け、頻繁に暴行を受けるなどした。志願したことを後悔し始めた。

米軍が上陸し、じわじわと南下してくると、軍司令部も南部へ移動開始する。それに伴って鉄血勤皇隊も南部に移動する。
攻撃が激化してくると戦死したり、脱走するものも出たが、ほとんどは軍と運命を共にする。

銃剣は支給されなかったが、手榴弾2発は渡された。1発は敵兵、1発は自決用である。
日本兵は子供たちに「お前ら、絶対に投降するな。投降しようとしたら後ろから射殺してやる。これで自決しろ」と脅した。

激しい戦闘の中、背後から銃撃を受け、腹部が裂けちる致命傷を負った隊員がいた。
激しい痛みに死を悟り、学友らに別れを述べて自決用の手榴弾の紐を引く。
ところが手榴弾は爆発せず、もう一つの手榴弾の紐を引いた。
しかし、2発目も不発であった。

致命傷を負う隊員は苦しみながら息を引き取った。

この日本製の手榴弾についていた紐は、引き抜いて炸裂させるのではなく、火をつけて爆発させる導火線だったと後日隊員たちは知った。戦場では不向きな手榴弾を渡されていたのだった。

翌日、この激しい戦闘が収まった後、米軍に投降していく日本兵が見えた。先に投降するなと脅した兵隊である。
投降せずに苦しみ死んでいった学友のことを考えると、この日本兵が米兵よりも憎々しく思えた。

逃げさまよううち、あまりにも疲れ果て、空爆も激しいのに燃え落ちてもいない民家に入って休んだ。砲弾の一発でも飛んでこれば全員死ぬが、もはやどうでもよかった。
すると、その夜に幼い子供を連れた、この家の持ち主の一家が返ってきた。
自分たちが掘った防空壕に隠れていたが、日本軍がやってきて追い出されてしまったという。
仕方がないので先祖伝来の墓の中に隠れていたが、またしても日本兵がやってきて、銃で脅されて追い出されたということだった。
隠れるところがなくなった一家は、危険を承知で自分の家に帰ってきたのだった。

母屋には隊員たちがいたので、一家は離れのほうに入った。

ところがその夜、艦砲の砲弾が離れに直撃し、一家は全員即死してしまった。
隊員たちはその家から一目散に逃げだしたが、自分たちが母屋を陣取っていなければ一家は死ななかっただろうという罪悪感に苛まれた。

戦場をさまよい、豪の中で飢えに耐え、最後には米軍に投降して生き残った隊員もいた。
投降した兵士たちは、たとえ子供でもハワイの収容所送りにされた。
衣服をすべて剥ぎ取られ、一糸まとわない格好にされて輸送船の船倉に詰め込まれて移送されていった。
ハワイでは大雑把に薬剤で消毒された後、粗末な衣服が支給されたが、子供のサイズの服はなかった。

これが、当時の日本政府を熱烈に支持した若者、子供たちの体験した話。
これは治安維持法という法律から始まったが、今日、平成の治安維持法こと「テロ等準備罪」が成立した。
このような悲劇にならないように望むしかない。

テロ等準備罪成立直前の昨日に亡くなった大田昌秀氏(元県知事、国会議員)はこの鉄血勤皇隊出身であり、その体験から強く平和を願い、平和を実現する運動に携わっていた。

補足

この話は、元隊員たちの証言集「沖縄一中鉄血勤皇隊の記録(上)(下)」にあるものを抜粋し、フィクションとして構成しました。今、この本が手元にないので記憶で書いていますので、事実と異なる部分があるかもしれません。